へりくつと言われても

今日は、毎年恒例、高校時代の音楽部仲間(合唱)とだべり会。延々。お店もおんなじ。やってること別々だけど、それぞれ熱い(笑)今日は三人だったけど、近くにアルコールランプがあったら、間違いなく街が一瞬で燃えたでしょう(≧∇≦)

でも少し落ち着いたかなあ。炎の色が穏やかになった、ていうか。

小学校の先生の話に感動しました。授業の時、先生が質問しない。子供から疑問を集め、進行も子供に順番にさせ、答えを一つにしないで発表しあう。無責任じゃありませんよ。自由に自発的に考えさせる授業です。

実は私、子供時代の国語の授業、かなり覚えていて。傷ついたんですよ。

くまの子ウーフが、ぼくは何でできてるか考え、最後ぼくはぼくで出来てる、て言うんです。
おかしいと思いました。まだ途中だと思いました。そしたら×。そこでウーフは、わかったんだよ、と言われました。

ぼくはぼくでできてる、なんかずるい答えと思ったんです。ま、確かに×ですよ。でも、なんでずるいと思ったことを大切にしてくれないんだろう。生意気な小二は傷つきました。

小六の時の先生は優しかった。やまなしというお話で、クラムボンは賢治が作った想像上の生き物、と先生が説明したので、水の泡だと思うと言ったら、しばらく考え、そうか、そうかもねと言ってくれて。休み時間も盛り上がりました。
生意気な(笑)

 答えが無いことが素晴らしい。おそれずに色々出し合い認めあうことがなくなったら、何にも言えなくなる。考えなくなる。

 学生時代、「混沌には目と鼻と口がない。穴を開けてあげたら混沌は死んだ。なぜでしょう」とある先生に問われ、意味が分からず何年も経ちました。が、つい最近、鮮明に分かりました。それはそうだよ。混沌に穴をあければ混沌じゃないもんね。すっきりしたらさ。それだけのことか、そこに感情やら戒めやら主観を求めたから、分からなかったんだ。

 でも調べたら、道教無為自然の教えなんです。私は生意気なので、おい、またウーフだよと思った。何ごとも作為的にせず自然がよい。意図はわかります。けどね、それだって作為はいけないという主観が入って、無為自然じゃないじゃんか。理屈ならさ。

 私は俗世の人間です。仙人じゃない。あけるのが怖いとか悲しいとか思うし、あけなきゃならんときもあるよ、とか思うし。あの先生、笑ってるだろな。宮ヶ原さん、だからあんたは青臭い。執着を捨てられんと。