再会

今日は、おばあちゃんのお葬式でした。本当は、おばあちゃんの87歳のお誕生日だったのですが。

祭場に早く着くと、職員の方がいらして、お話しして下さいました。

 お葬式は悲しいものだけど、人を引き寄せ、新たな出会いを故人が導く場でもある。だから、悲しみの後、集まった人たちとの交流も大切にして下さいと言われました。

まだ「おくりびと」を見ていないのですが、昨日、納棺師の方が、綺麗に体を洗って下さった時も、本当に感動しました。昔は、家族が洗ったそうですが、感染症などの危険から、専門家がやるようになったそうです。

私は、赤ちゃんの時、ずっとおばあちゃんにお風呂に入れてもらっていたそうです。その事をふと思い出し、涙が溢れました。

 綺麗にお化粧してもらって、お花を入れると、白雪姫の棺のようでした。

 でも…、魂はもうそこにないと実感しました。そこにおばあちゃんはいるけど、もういない。どこに行ったんだろうと思いました。

おじいちゃんが亡くなったのは小二の時で、私は火葬場に行った時、火葬したら熱くて可哀想だし、もし生き返った時まに合わないから、焼かないで、と言った覚えがあります。

でも今日は思わなかった。おばあちゃんの魂に、安らかになって欲しいと思ったのです。

神道のお葬式で、厳かでしたが、その儀式の中でシンプルに感じていました。

 生き物は等しく生まれて死に、命はたくさんの連なりの中にある。私もその流れの中にいるにすぎない。
 
死が訪れる時、魂が迷わない為に、昔から儀式が必要だったんだろうな。だって、今まで宿っていた魂が消えるなんて、やっぱり信じられない。見えない一人ぼっちの魂を、色々な危険から必死で守らなきゃと思った筈です。

 それでも儀式と別な所で、シンプルに悲しかった。だけど、今日、職員の方が言って下さったように、長年会っていなかったいとこや親戚に会えました。

 面影はそのままに、みんな年を重ね、それぞれの人生を歩いていました。会った事のない人もいて。血が繋がっているというのは、やっぱり特別なものを感じました。これが、確かにおばあちゃんの魂が今あって、呼んでくれたものなのかもしれないと思いました。

明日から、ビーの稽古ですが、改めて、感じました。生きてる時は魔法の時間なんだと。だから、争いはやめたい。小さな事でも。

確かに生きてるから争うんだろうけど、だけど祈りのように切に思います。

争いはやめよう。

今まで、命の意味を何だか凄く遠いイメージで演じてきたように思いますが、シンプルに違う気持ちになりました。

 芝居の事をこんな時に考えるのは不謹慎だろうか。でも、今私はこれしかできないのだと。おばあちゃんに教えてもらった事も無駄にしたくないと、そんなふうに思います。