表現

先日、参加させて頂いたジェームスのワークショップで、いすとりゲームをやりました。鬼になってすることは、歌うこと。

みんなの共感を得たら残れます。歌のうまさは問題ではありません。

最初はみんな、拍手を求めるようなノリのいい曲を選び、一人一人を覗きこんで歌いました。でも、ジェームスからノーが出てしまう。

私も鬼になってしまいました。涙そうそうを歌いました。まず、動かないで、円の前に立って、皆さんが聞いて下さるのを待ちました。

正直、こんなに震えたことはなかったです。声も呼吸も全くなっていませんでした。なんか、初めて歌ったみたいな気持ちでした。

円の向こう側の方も、皆さん振り向いて下さいました。

一人一人の方が見てくださるたびに、私は感動と安堵感で解放されていきました。

さすがに首が回らない角度の方がいたので、円の向こう側に回り、最後まで歌いました。

ああこの暖かさは何だろう。曲の持つ世界が、みんなを一つにしていく。この曲はこういう曲だったのか。最後は、私の歌ではなく、皆さんの歌を私がたまたま歌っている気がしました。

オーケーを頂いた。

次第に楽しい歌や、色々な歌でもオーケーが出る人が増えていきました。

二回目、鬼になった時、私は踊り明かそうを選びました。

さっきと違ったアプローチに挑戦しよう。ミュージカルやってるんだし、ちゃんと歌うのも目標だ。さっきのは全然そういう意味じゃダメだ。

しかし、何かまとってしまった気がしました。これで、人前にでても怖くない。

すぐ失格。

「確かに歌はよくなりました。でもチャーミングじゃない」

最後まで残ったのは、年配のベテラン女優さん。六回は鬼になったでしょう。

でも、ジェームスはOKという。震えてるわけじゃない、すべて違ったタイプの歌です。

最後にジェームスは「私たち俳優は、完全な正直者か、完全な嘘つきになるしかない。大切なことは、喜びを持って、やること。無駄なことをしないこと。」

震えたら人前で歌えない。だけど歌を鎧にしたら大切なことは死ぬのです。

今まで私は、ライブや舞台で、どうやって歌ってきただろう。きっと同じようにやってきた。これからどうしたらいいんだろう。

そう思った時、後でその女優さんのお話を聞きました。

女優さんは、全て計算してやっていらしたそうです。自分がどう見えているか、どう伝わっているかわかってやっていた。ベテランだからではなくて、そうやって表現されてきたからこそ、ベテランになれたのだと思った。それを、楽しんでらしたのだと。

そう、私は表現者としてはスタート地点だったのです。ひとつなら引き出しはあった。でも人前にたたせて頂くと、無限に色々必要になります。恥ずかしいこともする、時には殺人や犯罪を犯したり、死んだりします。常に正直でいたら、とても身が持たない。

私は形の演技は嫌いだとか思っていましたが、いや、華麗なる嘘つきであることが必要なのだと思ったのです。

嘘というのは、ちょっと違った表現ですね…自分を見て相手がどう感じるかをわかっている、それを冷静に楽しむことができるのがまさに役者。女優なのだと。

よく言われてきたことですが、改めて、意味がわかった気がしました。

歌という表現だっただけです。演じる、てそういうこと。

でも、私は、あのときの涙そうそうは忘れられないです。

別の機会で歌のアドバイスを頂いた時、思い当たることがありました。

その方は歌の癖について、言って下さったけれど、自分が認められたいと思って、歌い上げた時に出た癖のような気がしました。

秘すれば花で、表現しようとするのを止めた方が、うまくいくよとも言って下さった。

けれど、言われたようにやってみようと個人で練習すると、何か自分が歌う喜びみたいなものが感じられませんでした。

私ではなくお客様が喜んでくださるために歌うのだからいいのかなと思いながら、何か違うと思って、しばらく忘れて、全く違う仕事に没頭しました。

曲を変えました。

最近とても心に残った歌です。すると、初めて、こんなに歌うことが、課題をクリアーすることでもなく、誰かに抜きん出る手段でもなく、まるで恋をしたように、喜びに満ちて感じられたのでした。

曲のせいではないと思います。が、何かきっかけになったのでしょう。

私はまだスタートに立っているだけだし、合ってるか全然わからないけど、少しずつ、自分が変わっていっている気がしました。