横浜物語2

では、アメリカはどんな音楽を持ち込んだのでしょう。

ペリーの軍楽隊は、ヤンキードゥードゥルという、アルプス一万尺、ヘイルコロンビア、星条旗など、後アメリカ国家となるような曲を、吹奏楽で演奏。

吹奏楽は楽器も同様、この時初めて日本に伝わりました。

さらに交渉の合間に、艦隊の隊員が練習したショーを披露。

白人が黒塗りして、こっけいな劇を見せるミンストレルショー、アメリカ本土でも大流行していました。

フォスターの曲が使われ、日本では草競馬、主人は冷たい土の中に、アンクルネッドなどが歌われたのです。これらは、黒人霊歌や、プランテーションで働く黒人を歌ったものが多く、アンクルトムの小屋なども劇に盛り込まれていました。

白塗りして芝居する国の、紋付き袴のサムライが、白人の黒塗りしたショーを観ている、て、すごく興味深いと私は思いました。

1864年南北戦争終結により、ミンストレルショーは差別となくなっていき、のちのブロードウェイミュージカルに発展していきます。

さらに、吹奏楽薩摩藩の軍楽隊が妙香寺というお寺でイギリス人に習います。この時、国歌の必要性を説かれた薩摩藩の隊員が、古今和歌集の中で、よく薩摩琵琶で婚礼の時に歌われた句を選び提供。イギリス人が作曲したのが、最初の「君が代」。

意味も分からず作った西洋風の曲は日本人に歌いづらかったようで、のちに西洋音楽も学んだ宮内庁の方が作曲し直し、今の君が代になったそうです。

ともあれ、横浜の妙香寺には「国歌発祥の地」という碑が立っているそうです。