イライザ二部の2

本牧は、今でこそ埠頭や埋め立て地ですが、かつては絶景と歌われた海岸でした。東京湾に突き出た岬は、切り立った崖になっていて、古くから船の交通の要所。難所でもありました。
 
平安時代から、鎮守の森信仰があり、秀吉の時代には、十二の神様も祀られ、本牧十二天と言われるようになります。
 
明治の開港からは、外国人にとっても格好の行楽地に。関内から根岸本牧まで、馬車も通れる専用の馬車道ができ、道沿いに茶店が立つように。やがて女性が相手するようになる。
 
軽食屋のChop houseが浜ことばでなまったなどとも言われる、チャブ屋の始まり。大正から昭和初期には、たいそう賑わっていく事に
 
公式な遊郭の女性が、身売りされ、出店で手を振る物悲しいイメージがあったのとは違い、住み込みでなく、お客様と自由に外出できる。外国人相手に、語学、文化、教養がなくてはいけない。また、流行り始めたジャズやタンゴも踊れなくてはいけない。関東大震災後は、日本人相手に、断髪のモダンガールスタイルも出始めます。
チャブ屋の女性は、いわゆる、先端の水商売の女性たちでした。
 
堅苦しい銀座より、潮の香りのする本牧へ。
 
また当時、チケット制だったダンスホールで、女性と夜中までしか踊れなかったのに、チャブ屋ならば、ビール一杯で朝まで踊れた。
 
ジャズやタンゴファンも多く訪れるようになりました。
 
製糸貿易で財をなした実業家の原三溪が別荘を建てたり(三溪園)、谷崎潤一郎が一時住み込んで、映画の脚本や、痴人の愛を書いたり。
 
本牧十二天の参道は格好のデートスポット。その一本それた場所が、チャブ屋のメインストリート。
 
当時、このあたりの喫茶店でひっきりなしにかかっていたという曲です。
 
♪小さな喫茶店