絹のお話3

3赤い靴〜青い目の人形〜夕焼けこやけ〜朧月夜

最初の二曲は、横浜ですね。三曲目は、作詞家の方が八王子ということで、駅にも流れているそうです。

そして、朧月夜は作詞家が長野県飯山市の方。

実際製糸工場があったのは、ああ野麦峠や、女工哀史で有名な、岡谷市です。

あずさ二号の歌もある、中央本線

安い賃金で長く過酷な労働を強いられた女工達のお話が有名ですが、実際は温泉や劇場など福利厚生も充実していたと、岡谷の方に伺ったことがあります。

さて、原家は、二代目富太郎の時代へ。善三郎の娘婿。別名、原三溪です。

彼は、非常に芸術に造詣が深く、岡倉天心横山大観、下村観山、といった美術家たちのパトロンとなりました。

また、自分の別荘の庭に様々な名所の借景を施し、一般に公開したのが三溪園です。

関東大震災の際には、復興に尽力したと言われています。

日本のルネサンスを作った彼は、日中戦争が始まって三年後、戦局がまだ泥沼化していく前に亡くなります。

戦後、日本が占領から放たれ、沖縄返還を迎えるころ、日米摩擦の中で、日本の繊維産業は国の中枢産業の座を奪われていきます。


さて、機織りは、古来から女性達のお仕事だったそうですが、労働の中で、沢山の機織り歌が歌われました。

私も沢山の詩を目にしましたが、とうとうメロディーを探すことができませんでした。そこで、機織りのリズムを知りたくて、機織り体験をしたところ、秩父銘仙は3拍子。

正確には日本の音楽に3拍子はあまりない気がして、分からなかったのですが、様々なことを感じたままに、創らせて頂きました。

銘仙館で、当たり前かもしれないのですが、切なく感じたことがあります。蚕が蛾になってしまうと、綿になって糸は取れない。だから、繭を作ったら殺すのだと。お蚕様と言われるゆえんですね。