横浜物語〜船のお話2〜

氷川丸のお話の前に…
 
日本がそもそも、初めて外国航路に乗り出したきっかけは、台湾出兵でした。
 
軍を派遣しようにも、船がない…ということで、政府が岩崎弥太郎に依頼し、香港から13隻の船を買取り、出兵。
 
のちに、岩崎弥太郎率いる三菱が政府から無償払い下げを受けますが、当時の外国との海路競争は既に始まっており、個人企業ではなく、日本郵船となっていきます。
 
最初の航路は、横浜上海航路。明治8年のことでした。
 
さらに、欧州航路に乗り出した第一号は、岩崎弥太郎や、坂本龍馬の故郷にちなみ、土佐丸と名付けられました。
 
さて、初めは海外に発注した船を運航していた日本も、徐々に造船技術が上がっていきます。
 
時は豪華客船の時代。が、あのタイタニックの事件が起こり、世界は震撼となりました。安全性をより重視した船が求められていきます。
 
当時重要な航路の一つに、北太平洋航路(シアトル航路)がありました。
 
この航路を担った氷川丸は、北太平洋の荒い波にも耐えうる加工がなされました。
 
そして、海の安全を祈願して、埼玉県さいたま市氷川神社にちなんで、氷川丸と名付けられました。
 
シアトルでは、ハイカワ丸と親しまれました。サービスの良さから、様々な人々に愛され、戦前には、喜劇王チャップリンにも愛用されました。
 
それでは、この豪華客船の時代に思いを寄せながら、チャップリンの名曲を
 
 
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