横浜物語〜船のお話3〜

さて、豪華客船に、高いお金を出して乗れるほど、当時の人々は豊かだったのか…

答えは…移民。


当時のアメリカはこれからの国。安い中国や日本などの労働力を必要としたのです。そう、多く乗船したのは、三等客室を利用した、移民の人々でした。

アメリカで排斥運動が起こると、人々は南米へ。ぶらじる丸、あるぜんちな丸といった、氷川丸より巨大な船が大阪商船で作られました。

浜の歌姫、渡辺はま子は、当時こんな曲を歌っています。そして、彼女も、アメリカ人を祖父に持つクォーターなのです。

3サンフランシスコのチャイナタウン

しかし、戦争の影が迫ってきました。在日外国人を本国へ、日本人を日本へと運んだ氷川丸は、戦争中は南方戦線に赴き、病院船として、負傷兵を日本へ送りました。

日本を経由して、アメリカやカナダに非難したユダヤ人を乗せたのも氷川丸です。

ぶらじる丸やあるぜんちな丸などの巨大な船は軍艦に変えられ、戦火に消えてゆきました。

他の船も続々と同じ運命をたどる中、生き抜いた氷川丸は、終戦後は引き揚げ船として活躍しました。

横浜は終戦後、接収され、日本占領の拠点となりました。

昭和25年から28年の朝鮮戦争では、多くのアメリカ兵が駐留しました。

さなかの昭和27年、日本が占領を解かれた年、はま子のもとに一通の手紙が届きます。

日本ではもはや戦後ではないと言われはじめた頃、いまだフィリピンでは、毎日のように戦犯が行われ、無罪の人までが死刑にされていました。その死刑囚が作った曲があるというのです。

はま子は驚き、フィリピンの収容所に赴き、キリノ大統領の前で熱唱しました。家族を日本軍に殺された大統領は、

「こんな綺麗な旋律を作る国民だったのか。国民ではなく、戦争が悪かったのだ」と言って、人々を釈放したそうです。のちに、帰国したはま子の姿が、横浜の港にありました。

4ああ モンテンルパの夜はふけて