横浜物語〜船のお話4〜

翌28年、氷川丸は再び、北太平洋航路に復帰しました
 
しかし既に、終戦まもなく、アメリカ船である、アメリカンプレジデントラインズ(APL)が多く訪れていました。このハワイへの旅を若者が憧れ歌ったのが、あこがれのハワイ航路(昭和23年)です。
 
勢いのあるAPL。氷川丸は老朽化も進み、昭和35年、現役を引退しました。
 
しかし、大変人気のある船だった為、保存され、展示や、人々の様々な憩いの場となったのです。
こうして、氷川丸は、第二の船人生を歩み始めました。
 
さらに、昭和39年オリンピックの際は、氷川丸だけでなく、多くの豪華客船が大桟橋に泊まり、宿泊施設となりました。
 
しかしこの賑わいは、後の大きな変化の前の、最後の賑わいでした。
 
旅客機の普及です。さらに、日本自体が高度経済成長期を迎え、移民に行く人も減っていきました。
 
そして、船はコンテナ船の時代を迎えます。
 
貨客船の時代は、小さな艀という船がつき、荷物をいったん卸し、陸へ運ぶ沖仲仕という労働者が活躍しましたが、機械化された港からは、その姿も消えていきました。
 
さて、この変化の時代を舞台にしたジブリの映画が、コクリコ坂からです。
 
昭和38年、オリンピックの前の年。純愛物語と共に、次々と古いものを壊して、新しいものにしていく時代へ対抗するメッセージが込められています。
 
この主題歌の「さよならの夏」は、昭和51年、横浜を舞台にした同名ドラマの主題歌なんです。
 
そう、ちなみに、この映画を見てから、横浜の船巡りをすると、つい信号旗が気になるようになりますよ♪
 
それでは、ここで
 
 
5さよならの夏