横浜物語〜船のお話5〜

最初のブルーライト横浜の謎。それは、この曲がヒットした昭和43年には、港は出逢いと別れの場ではなく、眺めるスポットになっていたことが背景にあります。
 
さて、このコクリコ坂を観ると、だいぶ今と景色が違います。私達が横浜のシンボルだと思っているものは、多くが新しく作られたものだと気づかされます。
 
実はこの開発計画が始まったのは、まさにコクリコ坂の昭和38年でした。
 
高度経済成長で急激に東京の人口は膨れ上がり、近隣に流れました。神奈川県は、まさにその筆頭。
 
住宅、道路や交通の整備は必須。まだあまり開発の進んでいなかった横浜駅周辺中心に開発が進みました。
 
ベイブリッジパシフィコ横浜ランドマークタワー、地下鉄、第三京浜など様々。そして港北ニュータウン。赤レンガや、ドッグ、象の鼻などは、古いものを大切に整備されました。
 
中でも大きな要は、金沢地区を埋め立て、三菱造船所を移転したことでした。
 
この地では、平成元年に横浜博覧会が開かれ、その名残が観覧車です。一度開催後、解体され、現在の地に移動して建てられたそうです。
 
 
さて、この一連の開発計画の名前は一般公募されました。
 
この審査委員長が、船好きで横浜に移住されたイラストレーター、柳原良平さんです。
 
柳原さんは、もともとサントリーの宣伝部にいらした、アンクルトリスの生みの親でいらっしゃいます。
 
二位は、作詞家阿木燿子さんが押された、赤い靴シティだったそうですが…
 
堂々一位が
 
 
でした。21世紀になると、みなとみらいとなり、現在では、地名や鉄道線の名前になっています。
 
大桟橋は、オリンピックで整備され、バブル期からは豪華クルーズ船も乗り入れるようになりましたが、かつてほどの船の数はありません。
隣の東京港が整備されたことも影響がありました。
 
が、新たな本牧埠頭、大黒埠頭が、大きなコンテナ船の乗り入れ場として、活躍しています。さらに、海猿の舞台でもある海上保安庁もある横浜は、日本の重要な港なのです。
 
 
最後は、この曲で
 
 
6横浜ホンキートンクブルース
 
7月19日、この曲を歌われた原田芳雄さんの一周忌でした。ご冥福をお祈り致します。