横浜物語 オペラのあけぼの編2

帝国劇場にならび、関西で本格的なオペラを、との目的で作られた宝塚歌劇団は、のちに現在のような特色を持つようになっていました。


浅草でも宝塚風のレビューもあれば、舞踏の舞台もありました。ローヤル館のもと俳優たちも、金竜館でオペラを始めます。

このオペラだけが浅草オペラなのではなく、この時期に花開いた様々なエンターテイメントをすべて、浅草オペラと呼んだそうです。

もともとが、高木徳子率いる女性ダンサーの人気から始まっているので、芸術に詳しいというよりは、華やかで綺麗な女性が好き、という客層。しかも、安い価格とあって、大層な賑わい。

サトウハチロー宮澤賢治などもいました。

本格的なオペラの歌手は、帝劇に戻ったり、海外渡航し、金竜館は、オペレッタ中心となっていきます。田谷力三は中心的な存在となります。彼に憧れたのが、藤原義江です。長身でハンサムで、音楽の訓練を受けていなかった彼が、のちに渡欧して学び、戦後、藤原歌劇団を作っていきます。

さらに、このコーラスボーイとなったのが、エノケンこと榎本健一です。

浅草オペラ人気は、関東大震災をもって、下火となり、やがてエノケンロッパの時代といわれる、エログロナンセンスのレビューの時代になっていくのですが…

それでも、第二次大戦前に禁止されるまで、金竜館は続きました。この頃、通い、やがて葛飾情話というオペラを書いたのが、永井荷風です。

彼は若い頃、横浜の銀行員で、アメリカに派遣された時代もありましたが、肌に合わず、フランスへわたり、様々な音楽を日本に紹介しました。

慶応の教壇に立つこともありましたが、やがて合わずやめ、築地に移り住み、下町の色町や、浅草軽演劇やレビューに通いました。

昭和13年、同名映画の主題歌から、竹久夢二の宵待草、そしてリクエストいただいた、夜のタンゴをおおくりしました。