横浜物語〜オペラのあけぼの編1

すみません、アップ遅くなりました。横浜ライブ続きです。さて、二部は

恋とはどんなものかしら(フィガロの結婚より)

恋はやさし野辺の花よ(ボッカチオより)
エノケンのダイナ
宵待草〜夜のタンゴ
横浜市歌
横浜市歌ブルースバージョン

ロック・ザ・フィガロは、モーツァルトフィガロの結婚を題材に、オリジナルストーリーやナンバーを交えたミュージカルです。なので、まずは、その中から一曲。

日本に西洋音楽が伝わったのは織田信長の頃で、宗教音楽中心でした。オペラが世界で始まったのは1598年。鎖国時代には、長崎といえど本格的にオペラを上演できる劇場はなく、明治開港以後、伝わってくることになります。

初めて日本で上演されたのは1870年、横浜の中華劇場でした。同年、山手にゲーテ座ができ、当時大流行していたフランスオペラ、オッフェンバックの作品などが、海外から来日した劇団によって上演されました。しかし、もっぱらお客は、居留地に住む外国人たち。ベルカント唱法は、日本人には馴染めなかったのです。

上野に音楽学校ができ、教育が浸透して初めて、三浦環などの日本人によるオペラが上演されたのは1903年でした。

それまでに、1883年、浅草公園が整備され、浅草六区もできました。1888年、ドイツ留学を終え帰国した森鴎外の影響もあり、当時画期的だったワーグナーへの特別な関心が生まれました。これには音楽以外の思想的な影響が大きく、慶応大学にワグネルソサエティという合唱団ができたりしました。オペラはいまいち、音大で重きがおかれずワグネルの学生などが、かえって普及に一役買ったのです。

明治の最後の年にできたのが、帝国劇場です。オーケストラもそなえた、本格的なオペラ劇場として出発しましたが、大きく貢献したのが、ミラノスカラ座から来日したローシーでした。

振り付け家でもあり、本格的なオペラを導入したほか、歌や踊りに加え、演技の指導を徹底しました。運営面の改革も行いました。この時期に生まれたヒットが、ボッカチオの「恋はやさし野辺の花よ」です。

任期満了ののち、ローシーはローヤル館を結成。高価なチケットでなかなか売れず役者の出入りも激しかったのですが、のちに映画監督となる溝口健二などもスタッフで働いていたり、優秀な人材が育ちました。オーディションで入った田谷力三もその1人です。

経営不信で、ローヤル館が一年ほどでつぶれる一方、帝国劇場で大成功をおさめたアメリカ帰りのダンサーがいました。高木徳子です。彼女も過去にはローシー振り付けで成功をおさめたのですが、厳格なローシーと合わず、ミュージカルのようなステージをつくりました。その後、浅草に進出、さらなる成功をおさめます。ここから、浅草オペラの時代が始まります。