横浜物語5

ときはさらに流れ、大正10年、野口雨情作詞、本居長世作曲「青い目の人形」が生まれます。

第一次大戦後は日本はアメリカ文化ブームだったそうで、エキゾチックなこの歌は大流行。

さらに関東大震災大正12年に起こり、アメリカから救援物資が送られます。

本居長世は返礼大使として、二人の娘とともにアメリカに赴き、英訳したこの歌を歌ってアメリカでも大流行しました。

実際は、不況で悪化しつつあった日米関係を懸念し、20年日本に住んだ経験のある宣教師と、渋沢栄一が話しあいました。昭和二年、アメリカからは青い目の人形、日本からは市松人形が贈られます。

が、関係は悪化の一途をたどり、太平洋戦争に突入。

青い目の人形は、敵国のスパイとして燃やされたり、竹槍で突かれたりして壊されていきます。歌も禁止。

「いかに児童といえども、やまとの女郎花ならば、降るアメリカに袖は濡らさじだ。」狂った時代です。

もともと雨情は、次女がセルロイド製のキューピッドで遊ぶ様をみて作ったのです。

一人の人間の素朴な異国との出逢いを歌っていると私は思います。

戦後、現存する青い目の人形を集め直そうと、日本各地で運動が起こり、横浜には人形の家が作られました。今では世界中の人形が展示されています。

ちなみに、アメリカの市松人形は、すべて壊されたりせず、残っているそうです。